コラム

東京五輪のフルボッコにもの申す

2022年03月25日
日本流が通用しない時代の組織経営

これを書いているのは、東京五輪の開幕式当日。今回の五輪は、ありとあらゆる角度から批判・非難を受けています。いわゆる「フルボッコ」状態。確かに問題点や課題は多々あるでしょうが、ここまでネガティブ一色だと、へそ曲がりな私は逆に反発したくなります。ということで、五輪を東京でいま開催することの利点をあえて考えてみました。

前提として、なぜここまで叩かれているのか挙げると、大きく三つではないかと思います。①コロナ対策にマイナス。②期待していた経済効果がほとんど見込めなくなった。③運営側のゴタゴタ(国立競技場の設計、エンブレム、大腸菌、失言、不適切な任用……)。

これらを異なる視点から使うと利点が見えてきます。まずコロナ対策。私も中国の対策を知っているだけに、日本の対策の不備は痛感するところですが、なかなか変わらない。ここで海外から人が入ってきて注目が集まると、コロナ対策についてもいろいろ書かれる。相手は他国との比較ができる立場なので、指摘や批判には説得力がある。さらに、日本は昔から外圧には動かされやすいお国柄。つまり、いま外からの目で遠慮なく批評してもらうことにより、対策の改善向上が進む機会になる。海外との往来がほぼ止まっている現在、五輪でもやらなければ、こんな機会なんてありません。

それから経済効果の話。1964年の東京五輪は、戦後復興や社会インフラの整備を進める大きな契機となりました。言ってみれば、五輪には巨大な経済的効果があるという成功体験。これにロサンゼルス五輪以降の商業主義化も相まって、五輪は経済効果のために招致するものという(本質から外れた)見方がなかば当たり前になっていた。今回、国内の経済効果が見込めない五輪になったことは、目を覚ますよいきっかけだと思います。五輪は「経済効果(ゼニカネ)」や「観戦者の娯楽(見世物興行)」より前に、「アスリートのための最高舞台」であるべき。アスリート・ファーストの観点から言えば、真夏の東京や水質に問題のある東京湾での競技はどうなのか。今後の国際的イベント誘致で、本質に根ざした、成熟した議論をする契機になればいいですね。

それと、今回の五輪はコロナ感染という「運」が選手に大きな影響を与えて不公平だという指摘がありますが、無観客(や日本国民の関心薄)となったことでホスト国のアドバンテージが大きく減じられたため、むしろかなりフェアな戦いになるのではないかと思います。意図したことではありませんが、「アスリートのための舞台」が整う一助になったかもしれません。インバウンド客など競技以外の関心事が消滅した今回の五輪が、本質的な価値を再発見する機会になればいいなと思います。

そして運営側のゴタゴタの話。

東京が開催地に決定する際の「お・も・て・な・し」が話題になりましたが、これは誰に対するものだったのか。私を含め多くの人は漠然と「五輪が誘因となってやってくる(はずの)多数の訪日客」をイメージしていた。しかし本当はまず「世界最高峰のパフォーマンスや戦いを繰り広げるアスリートたち」こそが、もてなしの対象であるはず。無観客となってしまったのであれば、その分もアスリートたちが力を発揮できる環境づくりに集中するのがホストの役目。なのに、選手へのリスペクトやおもてなしを吹っ飛ばして、運営の問題をあげつらって叩く、しらける、開催の意義は失われたと非難する……。こんな状態ではアスリートたちに申し訳ないです。ただ、現在はメディアもネットのコメントもSNSも、「一億総批判」のようになっているものの、振り子が振り切れれば揺り戻しがある。総叩きの結果、「これでいいのか?」と違和感を覚える人、「視点がずれていないか」と自省する声が、きっと出てきます。

こうして、新しい成熟に向けたきっかけとなることが今回の東京五輪の価値ではないか、私はこんな風に考えています。

2021.08 Jin誌

この記事を書いた人

小島 庄司Shoji Kojima

多文化混成組織の支援家、Dao and Crew 船長。
事業環境のシビアさでは「世界最高峰」と言われる中国で、日系企業のリスク管理や解決困難な問題対応を 15 年以上手がけ、現地で「野戦病院」「駆け込み寺」と称される。国籍・言葉・個性のバラバラなメンバーが集まるチームは強いし楽しい!を国内外で伝える日々。